道徳 名古屋市南区

道徳公園の歴史

今の「道徳」あたりは江戸時代後期までは「あゆち潟」という浅海でした(旅人が往来した「東海道」は 名鉄名古屋本線 呼続 桜 あたりを通っていました 当時は海岸線) 文化14年(1817)海西郡塩田村(現、愛西市塩田町)の豪農 鷲尾善吉が干拓を始め 文政4年(1821)に道徳前新田として完成しましたが 台風で何度か決壊し のちに 尾張徳川家の御小納戸(おこなんど)所有となりました  大正14年(1925)に 名古屋桟橋倉庫株式会社が尾張徳川家より「道徳前新田」の土地を譲り受け区画整理をして分譲しました   江戸時代後期 本星崎町付近には「塩田」があり飯田街道をとおり信州へ塩を輸送していたそうです (今でも「塩付通り」の名前が残り ます)  鷲尾善吉が「塩田村」の豪農だったのと「塩」は 関連があるかもしれません 

昭和2年(1927)道徳公園の一部をマキノ中部撮影所に貸し「実録忠臣蔵」などが撮影されました (昭和3年3月13日の新愛知新聞に この映画の前売り券を大須の「うなぎのやっこ喫茶部」で扱う という記事があります) 公園内の月見池(当時は黎明池)や くじら池 は開園当時からあります

昭和初期 観音町には「観音山」が作られ頂上には道徳観音(楊柳観音)が祀られ、山の中にはスケートリンクがありました銀座通り商店街も誕生し「泉楽園」という温泉旅館もでき 名古屋でも有数の町として繁栄しました

くじら池のコンクリート製の くじら  

地元のコンクリート職人 後藤鍬五郎が製作しました(息子の 鉦さん が観音町に住んでおられましたが 2011年1月に他界されました) 

鷲尾善吉によって干拓(埋め立ではない)された 道徳前新田の堤防には伊勢志摩の正福寺から勧請された青峰観音が祀られていました 志摩の正福寺の伝説によると 「観音様は海の中から鯨に乗って現れ人々を救う」 ということから この地の守りとして 「鯨」が作られたのではないかと推定します (昔、鯨の化石が見つかったからという説もあります) 
今は くじら池に水はありませんが 昭和30年代は水遊びが出来ました 

数年前 同級生のM氏が「まだ下塗り中だ」と言った「品のないドラゴンズカラー」 に塗られてしまいました
作者の後藤鍬五郎 はこの鯨のほか 聚楽園の大仏様(写真左下)や 今は取り壊された観音山の道徳観音(写真下左)や長浦海岸の大タコ(写真下右)などを作った人です

観音山の山頂に立つ 楊柳観音

昭和初期 当時の地主名古屋桟橋倉庫株式会社(福沢桃介の興した会社)が製作 開眼供養は清水寺の大西良慶師でした  山の中は空洞で当時は珍しいスケートリンクで 南側には滝とプールがありました

観音様はコンクリート製で約6m 作者は地元の後藤鍬五郎。   銀色に塗られていたため 戦時中 陸軍の将校が「金属供出」の調査に来た という逸話があります   昭和39年「桟橋倉庫kk」が解散のため脱眼 解体されました  (工事を請負った業者の社長はのちに事故死したと伝えられています)

昭和20〜30年代は危険な廃墟でしたが子供には いい遊び場でした  スケートリンクはすでに廃止されて 製氷工場になっていましたが 山に登ることはでき 名古屋港の向こうに伊勢湾、北には遠く木曽御嶽山が良く見えた記憶があります

くじら に乗って現れるという 青峰観音  

初代の青峰観音は伊勢志摩の正福寺より勧請 

最初は南陽通り4丁目の堤防(旧市電通り)に安置されていたそうです  当時の堤防からは 伊勢湾の向こうに 伊勢志摩の山々が望めたハズ。 

観音さまは故郷を眺めながら この地を守っていたのでしょう
写真の青峰観音は稲荷神社(豊田小学校西門前)の境内に再建されたもの

後藤鍬五郎の作った 聚楽園(東海市)の大仏                     長浦海水浴場の 大たこのターチャン

昭和天皇のご成婚を記念して作られ 費用は名古屋の資産家 山田才吉 が負担した

身長62尺 (18.79m)

階段横の仁王像も 後藤鍬五郎の作品  

マキノ中部撮影所

昭和の始め 道徳公園(道徳小学校と大江中学校の敷地を含む)にはマキノ省三(長門裕之 津川雅彦は孫)映画の撮影所がありました 「実録忠臣蔵」を撮影するため黎明池(現 月見池)を赤穂城「堀」のセットに使ったといいます   当時の「黎明池」は大江中学校から敷島通り(現道徳通り)まである大きさで 道徳小学校のある場所に撮影所のステージや食堂があったそうです  撮影所は数年使われただけで 昭和3年に閉鎖されました  
マキノ省三監督も昭和4年に亡くなっています  撮影所で使用する機材の「倉庫」が観音町5丁目に今も残されています また撮影所内の稲荷社にあったといわれる献灯が現在 「山神社」の境内にあります

不思議な道路配置

左図は南区観音町の現在の地図です  東昌寺の北側の緑地は観音公園で その上のペン先のような道路が「観音山」のあったところです観音町は正方形に区切られており 東西南北の四隅に斜めに延びるツノのような特徴ある道路があります 

まったく同じ道路配置が 中村区大門町に見られます (右図) ここは有名な「中村遊郭」(名楽園)のあった場所です

観音町もおそらく遊郭を意識して街作りされたと思います 

昭和20〜40年代 私は観音町に住んでいましたが「遊郭」らしきものはありませんでした(泉楽通りに いわゆる「パンパン屋」が あった)売春防止法(昭和32年)施行後の記憶なので当然かも?  

福沢桃介(当時土地開発した名古屋桟橋倉庫kk)の計画倒れ だったのでしょうか?

伊勢湾台風     昭和34年9月26日

 湖の中に立っているような大江中学校の南校舎 
 

  「水と泥と汗と」 大江中学校発行 から

私はここで生まれ 約30年間 ここ「道徳」の街で育ちました  腕白時代のテリトリーの北側は道徳新町 東は名鉄電車の線路 南は堤町 西は泉楽通りまで.。 住まいは観音町でした 当時はこの街の歴史を知ることもありませんでしたが 最近になって 「道徳」は名古屋の発展に重要な場所であったことを知りました     順次記憶をたどり 思い出を まとめていきます    もともと ここは 200年程前 鷲尾善吉 が遠浅の海を ぐるりと堤防で囲み「干拓」して作った「道徳前新田」でした(埋め立てではありませんから今でも海抜マイナス数mに変わりはありません) この道徳前新田を徳川家から買い取り 宅地に造成して売り出したのが名古屋桟橋倉庫株式会社(福沢桃介の会社 昭和39年解散)です  

今から約半世紀前 南区を襲った台風15号(のちに伊勢湾台風と命名)で同級生2名が犠牲になりました 山崎川の堤防下にあった排水ポンプ場の改修工事するため 堤防を削っていた為 ここから決壊したと聞いています    大同町や柴田あたりは貯木場から流れ出た直径数mのラワン材で 家が壊され多くの命が奪われましたが 道徳学区では家が壊されるまでの被害は少なかったようです     南陽通りは もともと「道徳前新田」の海岸堤防でしたが今は面影もありません   当時 大江中学校の2年生(一年先輩に女優の松原智恵子さんがいました)でした それまでにも床下浸水は毎年ありましたが 天井を越えて水が来たのは最初で最後(にしたい)です

「道徳」の地名は1812年(200年程前)尾張藩の 樋口好古 が尾張史を作るため この地に来て徳川家の政策の一節 「道義をもって徳を施す」 から命名したという説がある(現在の道徳はまだ海の中)    全国的にも めずらしい地名と言われる

伊勢湾台風から半世紀後の道徳の街      2009−9−25 撮影

大江中学校東門前の石渡文具店と鈴木文具店跡

大江中学校と道徳公園の間の道 殺人事件のあった場所         だるまや文具店跡   

さくらや文具店跡  右のコンビ 

なかしまや文具店 はすでに廃業 

共立電器のビルは仏壇屋に 右奥は道徳小学校 

右の建物が マキノ省三 の倉庫跡            稲荷神社(豊田小学校西)に残る 海岸堤防跡 といわれる 石垣

ピンポン屋跡 普通の住居になっていました

醤油屋 「いくチャン」の家                   御替地神社に残る 堤防跡 といわれる石垣

帽子屋「たっちゃん」の家    今も帽子屋 

「とよちゃん」の家は接骨院に             道徳公園南入口 昔はモニュメントはありませんでした

私の家は取り壊され駐車場になってしまっていました

道徳郵便局 左側の駐車場は シマ洋装店跡

そろばん学校                道徳公園 月見池(黎明池)映画撮影のために作られたという     

H電機 「やっちゃん」の生家  ほとんど当時のまま    江口歯科医院のあった家        道徳道 (呼続の東海道につながる)の始点(消防署の向い側)  

西暦 皇紀 イベント
2000 平成12 東海豪雨
1999 東昌寺の観音堂修理 観音様化粧直し
1998 平成10
1997
1996
1995
1994
1993 平成5
1992 泉楽公園 開園
1991
1990
1989 平成元年 1月昭和天皇 崩御
1988
1987
1986
1985 昭和60 聚楽園大仏修復落慶開眼式  コミュニティー道路 文政の道 完成
1984 名鉄神宮前〜大江間 高架完成
1983
1982
1981
1980 昭和55 法筵寺(日蓮宗)創立
1979 本四架橋 大三島橋開通
1978 宮城沖地震
1977
1976 ミグ25函館に着陸
1975 昭和50 新幹線 博多まで開通
1974 道徳第2ポンプ場完成    2月市電 廃止  道徳公民館が完成 
1973
1972 新幹線 岡山まで開通 名鉄 山崎川駅廃止    名四国道 竜宮町と弥次エ町間 高架完成
1971
1970 昭和45 大阪万国博
1969 アポロ11号月着陸
1968
1967 第1次中東戦争 道徳小学校にプール完成
1966 文化大革命 道徳電話局完成
1965 昭和40 北ベトナム空爆 大江中学校にプール完成        道徳音頭 作られる
1964 東京オリンピック、新潟地震 後藤鍬五郎 逝去(85歳)        観音山 取り壊される   山腹の観音像 東昌寺に移される
1963 ケネディ暗殺 道徳小学校に校歌できる 山神社の社殿が新しく建立される参道の敷石は市電の敷石
1962 YS-11初飛行
1961 ソ連 有人衛星打ち上げ
1960 昭和35 カラーTV本放送 伊勢湾台風慰霊碑「我らと共に」建立
1959 皇太子成婚 道徳第1ポンプ場完成   名古屋市開府350年  市制70周年 伊勢湾台風
1958 東京タワー竣工 大江中学校から明豊中学校独立
1957 ソ連初の人工衛星打上げ
1956 東海道線電化完了
1955 昭和30 道徳公園に鷲尾善吉翁 頌徳碑建立
1954
1953 TV本放送開始 基督兄弟団名古屋教会設立
1952 GHQ廃止 7月大江中学校東校舎火事
1951
1950 昭和25 2610 テレビの実験放送 名古屋の小学校 完全給食開始     名古屋南母子寮設立
1949 2609 大江中学校の校舎が完成  9月名南中学が独立   道徳駅再開
1948 2608 料亭「静月園」を大改修して道徳保育園開設
1947 2607 校名が「名古屋市立道徳小学校」になる 名古屋市立大江中学校 開校   大同工業学校は白水に移動
1946 2606 日本国憲法発布 道徳小学校に平屋の校舎が出来る 南陽通り、一条〜七条町、泉楽町出来る 長浦海水浴場に たこ坊主(2体目) 作者 後藤鍬五郎
1945 昭和20 2605 沖縄 終戦 3月12日130機271軒全焼 軽傷2人 5月17日100機1803軒焼失 道徳国民学校5月空襲により全焼    道徳駅も被災休止  泉楽園焼失
1944 2604 サイパン、レイテ陥落 12月18日敵機70 死者112人  観音公園開園  12月 東南海地震起こる 市電 6号地 まで延長される     東南海地震で泉楽園倒壊
1943 2603 ガダルカナル玉砕 山神社現在地に移転 観音公園開園 道徳公園の工事に国庫補助60万8千円 ,道徳本町3300戸
1942 2602 ミツドウェイ海戦 山神社 観音山から現在の場所に移転
1941 2601 太平洋戦争始まる 皇太子誕生を記念して道徳公園開園(南区で最初) 道徳国民学校になる   道徳公園竣工         道徳本町2800戸
1940 昭和15 2600 現大江中学に大同特殊技術者養成所ができる     山神社できる 道徳尋常小学校開校    内田橋から南陽通り6丁目間に市電が開通
1939 2599 第2次世界大戦始まる 道徳公園の土地を「桟橋倉庫会社」から寄付される 市電開通 現道徳小学校南に大同製鋼病院開院    8月大同工業学校道徳校舎完成
1938 2598 福沢桃介逝去 70歳     廻向寺出来る 11月に大同製鋼 の下出義雄社長が大同工業学校の開校を申請
1937 2597 名古屋汎太平洋博覧会開催    東山公園開園 名古屋市は3ヵ年事業で公園の製作に着手
1936 2596 道徳ポンプ場完成 道徳観音像の開眼供養 (清水寺の大西良慶)         
1935 昭和10 2595 敷島通りに道徳新町幼稚園開校するが戦後閉園 スケートリンク開場 名岐鉄道と愛知電気鉄道が合併名古屋鉄道と改称    南陽館,水族館閉鎖
1934 2594 ドイツにヒットラー登場 豊田プールできる 道徳新町、道徳通り、観音町、堤町ができる(旧名 西園町、敷島町、花里町、暁町、月吉町)
1933 2593 日本 国際連盟脱退 道徳公園株式会社設立         観音山が作られる 皇太子降誕記念行事に 公園を作ることになる    料亭「静月薗」開業
1932 2592 上海事変、 5・15事件 名古屋市内で「公園祭り」が開かれる 山崎川駅(貨物駅)開業     岐阜木材まで引き込み線できる
1931 2591 道徳銀座通りにガス・水道  商店街誕生  和光保育園は(当時道徳幼稚園)開園  道徳公園を豊田土地区画整理組合で施設     日切弘法が建立される
1930 昭和5 2590 道徳通り(旧敷島通り)に道徳女学校開校    東昌寺できる 長浦海水浴場に たこ坊主 作られる 作者 後藤鍬五郎    観音山に山神社できる
1929 2589 観音山完成 このころの町名 西園町、敷島町、花里町、暁町、月吉町
1928 2588 御大典奉名古屋博覧会 マキノ中部撮影所 閉鎖   東昌寺現在場所に移転  廻向寺(真宗) 発足  道徳学区にガス・水道が引かれる  民営バス開通(名古屋駅→道徳)  道徳市場できる   刈宿(常福寺)の大仏完成    常楽院の閻魔像完成 
1927 2587 マキノ中部撮影所が開所    「実録忠臣蔵」撮影開始 聚楽園の大仏開眼  ,道徳公園のクジラ作られる 作者 後藤鍬五郎  
1926 昭和元年 2586 道徳公園の開築はじまる           宅地開発はじまる このころ 泉楽園(料亭旅館)作られる   
1925 2585 ラジオ放送開始 名古屋桟橋倉庫KK(福沢桃介)が道徳前新田を徳川藩から買い取る(273290坪) 徳川家の会所(現 南消防署道徳出張所がある場所) が閉じられる    
1924 2584 伝馬町〜柴田 複線化
1923 2583 関東大震災
1922 2582 名古屋市 市営電車営業開始
1921 大正10 2581 名古屋隣接16ヵ所合併 内田橋からまっすぐ道徳橋につなぐ道路が出来る                                   道徳本町 106戸
1920 大正9 2580 日清紡績名古屋工場創業  大江に三菱内燃機製造会社設立  弘法堂できる 南陽館を規模縮小して再建 隣に水族館  熱田電気軌道(後の市電)が南陽館まで
1919 2579 ベルサイユ条約 道徳学区に電気が点く 日清紡績が徳川藩から51042坪を34万円で購入
1918 2578 大同電気製鋼所 築地工場創業 鶴舞公園付属動植物園開園 岐阜木材kk が現在の堤町に移転
1917 2577 桃介相談役に
1916 大正5 2576
1915 2575
1914 2574 第一次世界大戦 5号地完成 愛知電気鉄道の社長に福沢桃介就任    
1913 2573
1912 大正元年 2572 愛知電気鉄道開通 4月18日道徳駅開業    暴風で氷室及び5号地の堤防決壊 南陽館作られるが 開業直前に台風で崩壊
1911 2571
1910 明治43 2570 熱田電気軌道線開通 5号地に名古屋教育水族館(竜宮城)開設 (山田才吉)
1909 2569
1908 2568 5号地の開築 完成
1907 明治40 2567 義務教育6ヵ年となる
1906 2566
1905 2565
1904 2564 日露戦争
1903 2563
1902 2562 このころから「綿花」の栽培 衰える
1901 2561
1900 明治33 2560
1899
1898
1897 明治30
1896
1895
1894 日清戦争
1893 豊田1丁目に豊田小学校の新校舎できる
1892 明治25 後藤鍬五郎 生まれる(海部郡七宝町)
1891 愛知郡呼続町大字豊田字道徳となる 年貢米869俵とお金158219銭を道徳橋から船で徳川家の倉庫に運ぶ
1890
1889 大日本帝国憲法発布 大きな台風   道徳前新田だけは難を免れる 福沢桃介結婚
1889 名古屋市誕生
1887 明治20 道徳橋はなく 渡し舟
1886
1885
1884
1883 福沢桃介 慶応義塾に入る
1882 明治15
1881 鷲尾善吉翁逝去 90歳
1880
1879
1878
1877 明治10 西南戦争 愛知郡豊田村道徳となる   開知学校移転(北腕「道徳北町」に移転 
1876
1875
1874
1873 御替地町に開知学校開校(豊田小学校の前身)
1872 明治5 愛知県誕生
1871
1870
1869
1868 明治元年 福沢(岩崎)桃介生まれる
1867
1866
1865
1864
1863
1862 このころ尾張藩の威信をかけて堤防の復旧を行う
1861
1860 万延元年 5月、6月、8月と3回堤防の決壊が起こる
1859
1858
1857
1856 安政3 氷室新田 開墾 (山崎川の流れが変わる)
1855 安政2 大きな台風の被害
1854
1853 嘉永6 ペリー浦賀に来航
1852 山田才吉生まれる
1851
1850
1849
1848
1847
1846
1845
1844
1843
1842
1841
1840
1839
1838
1837 天保8 青峰山観音像を堤防に安置(志摩の正福寺より) 現在の南陽通り4丁目あたり
1836
1835
1834
1833
1832
1831
1830
1829
1828
1827
1826
1825 文政8 異国船打ち払い令
1824 鷲尾善吉 借金のカタに道徳前新田を御小納戸(徳川家)に差し出す
1823
1822
1821 文政4 道徳前新田 開築(4kmほどの堤防が完成) 43名の入植者    稲荷神社できる 道徳公園の頌徳碑の背面に入植者名が書かれている
1820
1819
1818
1817 文化14 「道徳新田」の西側に鷲尾善吉が「道徳前新田」の開築に着手
1816
1815
1814
1813
1812 樋口好古が尾張徳川家の家訓「道義をもって徳を施す」から「道徳」と命名
1811
1810
1742 天白川の流れをもとに戻す 農民に替地(御替地新田)を渡す
1728 天白川と山崎川を合流させたが14年間に17回の出水がおこる

昭和28年頃の 道徳小学校  長浦海岸遠足の記念写真 (1年生)   「今葷倍先生」のクラスです <今葷倍先生は 2013 他界されました>

すでに他界した人や「ボケ」た奴もいます

後方のコンクリート製の「タコ」が後藤鍬五郎の作品です  現在は壊されてしまってありません 

大江中学校の臨時職員室  右端が冨士先生(2020-2-25 逝去) 左隅は八幡先生 奥に小嶋校長 真中が 若槻先生 鈴木先生 手前の後姿は杉浦先生  何か話されているのが伊藤先生    全員が鬼籍に入られました

浸水した だるまや文具店 左奥は豊田小学校西門 


下の写真は50年後のだるまの看板 
現在(10年3月)は取外されて ありません

稲荷神社 (豊田小学校の西側)

弘法堂   「道徳前」の石碑が右端に見える

 道徳小学校 校庭の築山にある 昭和17年の卒業記念碑

観音町8丁目の我が家跡は 駐車場から アパート になっていました  2011-4-17撮影

我が家跡は駐車場になっていました

中島歯科のあった場所  (2011−4−17撮影) 

ふじさき さんの家があった場所   観音町7

道徳通りの 江口歯科  2011-4-17撮影

道徳公園の 鷲尾善吉翁 頌徳碑

後藤鍬五郎作の くじら   昭和2年生まれ
    2012-7-28撮影

「道徳」 の 歴史年表

我が家跡に建ったアパート (2011−4−17撮影)

社本さんが住んでいた家  昔のまま残っていました

昭和30年代のくじら   

池には水があり(汚い水でした) 口の中から くじらの胎内に入ることが出来ました


ご覧になった同級生の皆さん連絡ください      ja2dvh(アットマーク)jarl.com   ( )は@にしてください

山神社の鳥居横の常夜灯   撮影2012−7−28

常夜灯裏にある 見なれた 名前・・・ 

道徳公園グランドの号令台

さくらや文具店跡 右コンビニ奥に マキノ省三 倉庫跡がある

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分団の集合場所だった 神野米屋

道徳郵便局から大江中学校 東南門を望む

開園当時からある コンクリートのテーブル