2008331日 瀉血治療開始直前に「思い出した事」を書いておく。

(1981の体験談にも書いている事で、一部重複しますけが…)

再生不良性貧血発病した時、善意の多くの皆さまより(献血いただいた)血液を頂き、生きながらえておりました。

輸血が行なわれる当日の朝に献血されたO型血液を洗浄し、赤血球のみを血液救急センターの車が

名古屋市内から私が待つ春日井市の病院までを、サイレンを鳴らし運んでくれた。

しかし、運ばれてきた血液が私に会うかどうかの検査が有り、問題ないとの診断後、その洗浄赤血球を輸血。

2週間毎に1回、1回当り1,800cc、1600cc3日間輸血する事で10日から2週間生き伸びる。

成人、人は1日平均200ccの血液が壊れ、造られるといい、私は血液が全く造られていないとのことなので

輸血する事でしか生きられなかった。延命のための輸血、しかしこの治療も限界あり、長い方でも三年以下。

白血球も少ないので病気に対する抵抗力もなく、血小板も少ないので止血する力にも欠けていた。

出血ー何もしなくても口から鼻から目からの粘膜とか、体の内臓のどこかでも出血、胃や腸の中でも。

幸いにも頭、脳の中とかでの致命的な大量出血はなかった。目玉の中で出血した時、まさに目の前真っ暗になった。

輸血周期の2週間が持たない時も有った。消耗を防ぐ為輸血迄の23日、寝たまま輸血日を待つ日も有った。

貧血状態になると血の気がなく手足も青白くなり、動機や息切れ、めまいに頭痛、貧血熱、そして歩けなくなり、

やがて動けなくなる。義妹結納の日、1階では祝いが、私は病気のことを隠していたので、気分が悪いからと

2階で寝ていた。たびたび見に来た妻、私は何度か気を失っていたようで、まっしろな顔色だったそうだ。

発病当時、公団の5階建ての5階に住んでいた。前述の通り、輸血後7日目には1階上る毎に息切れし、

10日目には
11段が苦しく、12日を過ぎた時には5階までの階段が登れなくなった。

でも1,800ccの輸血を行なえば、(10日間は)普通の方と何ら変らない生活が出来たのですよ。

連続三日間輸血をおこない復活する自分、その姿はまさに「生き返るドラキュラ」。

こんな自分になった姿を妻には見せたくないし、家族にも知られたくなかったので、身内には一切秘密にしていた。

担当の専門医、会社の一部関係者のみ知る私の病だったが、輸血の事で全国の社員全員が知る事に。

数十万人に一人という聞きなれない病名、輸血することでしか生きられない、輸血を止めれば即、死ぬーと。

発病後まもなくは輸血さえすれば外見は何も変わらず普通に生活が出来た。

しかし数ヵ月後には、体内の血小板が少くない為か、体のあちこちから出血しだした。

車の運転中、突然気分が悪くなり、口から血を吐き、服も車内も血だらけになったこともあった。

また仕事打合せ中にいきなり鼻からの出血、ぽたぽたではなく水道の蛇口から流れる如く、すーと出て止まらず

周囲の方を驚かせ、迷惑を掛けることも多々有った。 街中で貧血から頭痛でうずくまり、タクシーで帰宅する事もあった。

いつも気丈であった自分だった、が、やがて寝ていても、起きていても、鼻から口からの出血が毎日のように続き

血が止まらず、大量出血という事態が続く。「どこかおかしくない?」という妻に返事も出来ず、

「単なる鼻血」とのごまかしが通じなくなっていた。それからまもなく、妻は私に内緒で病院へ行き、

私の担当医―血液専門医の名前を尋ね、医師に面談、私の病気、病名、状況を知る事となった次第。



骨髄穿刺という検査の事

再生不良性発病後、月に何度か骨髄穿刺(マルク)という検査が行なわれました。

血液の病気の、ほとんどの方が経験していると思います。

血液は骨髄で造りだされます。

だから骨髄の状態を検査する為、骨に穴を開け、骨髄液を吸い出すのだけれど麻酔をする、しないは各自の判断?。

ドリルのような針で直接骨に穴を開けるのでとても痛い。だけど、骨に打つ麻酔の注射針のほうがもっと痛いと自分は思う。

麻酔は骨の中まで効かないとは検査技師が言うので、痛いのを承知で麻酔注射は止めた。

とにかく麻酔があってもなくても、この検査は死にそうに痛い事、間違い無し。

体のあちこち、1日に何箇所も行なわれると、情けないやら悔しいやらで涙までも出て来る。

直径数ミリもある太いドリルのようなの針で腰骨や胸骨にキリの如く、直接ぎりぎりと穴を開ける。

腰骨から採取の場合は痛いし怖いけど、自分の目で見る事ができない分、まだ我慢というか忘れる事ができる(笑)が、

胸骨の場合は目の前での穴空け作業?なので、音も聞こえ、道具も見え、穴に入れて骨髄を吸い出す様子も、

何もかもが見えてるので、まさに恐怖の検査だ。

今でも骨に穴を開ける時の、あの音、あの感触は忘れられない。

たまにドリルを抜く際骨に引っかかり、思わず体ごとベッドから浮いてしまう事があった。今もたまーに夢で見ることあり。

数年間、この検査を続けていた為、胸に穴の跡、骨の一部も少し盛り上がってしまったが、幸い今は目立たなくなった。

さぁ今日はマルクをしようかぁ」ーと言われなくなり、二十数年が過ぎたのでした。


針で思い出したこと

当時は輸血で太い針を血管に刺し、検査で注射針を刺し、そして点滴で針を刺し、

そして入院してからは日々34度は針を刺しと、
3年弱の間で私の体、両腕や足の血管で

 針の刺せる、まともな血管がなくなった事も忘れられない思い出。


(最後は血管が浮き出ない部分なのに、見事に針を刺すのだけれど…)

青黒く晴れ上がっている腕手や足、手足の甲、肩を診ながら入院した時などは更に一日に最低三度。

 「きょうはどこへ刺しましょうか」なんて、涙目で針を構える看護婦さんに

「じゃ、ここにしとこう!」なんて明るく答えて振舞う患者の気持ちって、解らないでしょうねぇ。

生まれて初めての「瀉血」のお話です