「紅の歌」 
一、
ああ紅の 朝明けて
魁光りぬ 丈夫は
ああ暁鐘を 打て 鳴らせ
驕(おご)れる波浪よ なにかせむ
邪悪の徒には 栄えなし
地涌の正義に 民衆(たみ)の旗

二、
毀誉褒貶(きよほうへん)の 人降し
輝く王道 この坂を
父(ふ)の滸(もと)集いし 吾らあり
子(きみ)よ大樹と 仰ぎ見む
ああ青春の 金の汗
誓いの青藍 虹かかれ

三、
老いたる父母の 築きたる
広布の城をいざ 護り抜け
眩き地平に 澎湃(ほうはい)と
若き翼よ 爽やかに
万葉の詩 ともどもに
舞いに舞い征け 世紀まで

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入会当時から現在に至るまで
苦しいとき、
辛いとき、
この歌で自分を励まし、幾度奮い立ったか、数知れません
特に第2回中部青年平和文化祭の練習時、
そして迎えた本番当日前、終了後
感涙極まり、地元の同志や
中部各地より集った名も知らぬ男子部の同志達と肩を組み
皆が皆、入れ替わり立ち代り指揮を執り、何回、何十回歌った事か
学会歌 紅の歌
この歌あればこそ、生涯師との共戦の人生を歩んでいます。
「今生人界の思い出は、この歌と共にあり…」



「紅の歌」
1981年(昭和56年)11月11日、池田先生を香川の四国研修道場に迎えた四国青年部の有志は
「四国男子部の歌を作って、われわれの決意を示そう」と、我々の決意を託そう」と4行詩を制作 
検討を重ね 6行詩に改編。
翌日の池田先生との懇談の席で紹介すると「いい詩じゃないか」と・・「紅の歌」の誕生の瞬間である。

池田先生は、青年たちの心意気を喜び、自ら歌詞に筆を入れていった。
池田先生と会員の絆(きずな)を裂こうとした〃悪の謀略"は、この地でも嵐(あらし)のごとく吹き荒れた。
だが、四国の同志は、その苦しみを耐え抜き、敢然と戦い抜いた。
そして、第三代会長勇退の翌年(昭和55年)には、師匠を求めて神奈川の地へ。
広布を阻止(そし)する邪悪への〃反転攻勢"を開始した池田先生は、こうした友の思いにこたえ、
いち早く四国の地を訪れたのである。
「紅(くれない)の歌」が誕生する前々日の「香川の日」記念幹部会で
「もう一度、私が指揮を執らせていただきます。みなさん私と一緒に戦ってくれますか!」と呼び掛けた。
場内に共戦の決意が爆発する。この感動が「紅の歌」に凝縮していく。
推敲(すいこう)は二十数回にも及んだ。「随筆・人間革命」にはこう記されている。
「彼らは、夜を徹して作ったのだろう。目が赤かった。
『よし、君たちのために、私が手伝おう!』と、私は決めた。
私の心は、一心不乱となった幾度となく、推敲に推敲を重ねていった」と。
詩情豊かな詩があふれ出てくる。曇った心を突き抜けて、確固たる鼓動の響きが走った。
ああ紅の朝明けて魁(さきがけ)光りぬ丈夫(ますらお)……
池田先生は「太陽が真っ赤に燃えるような情熱だ。朝ぼらけの日出()ずるときの光景だ。
青年の闘う命に満ちた一切がこの中に含まれている」と語った。
「子よ大樹と 仰ぎ見む」との歌詞では
「皆が私より大きくなるのを 私が下から仰ぎ見る という意味なのだ」と池田先生は語ったそうです。


邪悪と断じて戦い、師弟の道を貫いていく、との
青年の燃えるような決意が込められたこの「紅の歌」は、
全国の青年のみならず、広布に前進する同志の決意の歌となった

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「紅の歌」