「時」の話
私達家族が入会した1980年代、
今振り返れば学会は大変な、最も重要な年、状況だった。
私はと言えば入会した翌日から病院で入院生活
やがて来る(と思っていた)死への恐怖に震えていた。
学会の事を知ろうと、許される時間の範囲で学会の書物、本を持込み、読みまくった。
昔の新聞の記事や書類には師の写真が載っていたが
入会前、聖教新聞を読んでも師の写真は掲載されていなかった。
なぜ?当時は解らなかった。
退院後、学会活動とともに、因は宗門問題と知る。
この時期、師の姿は新聞にもどこにも掲載されてなかったと記憶している。
昭和57年、新年勤行会にも師は本部に姿を見せられなかったと聞く。
入会した昭和56年、昭和57年と「青年の年」が2年続く。
全国各地で文化祭が開催、中部も開催された。
退院直後、会員さん家にてTV生中継で第1回中部青年平和文化祭を見た
あの、歴史に残る2度挑戦した五段円塔を見て、感動した。
TVを通して、師の姿を初めて拝見、
その師が「秋、中部でもう一度文化祭をやろう」と言われた。
難病の私は(「病気に負けてどうするか!」の先輩の一言で)参加を決心。
(参加への執念は周囲の制止を振り切り、想像を絶する真夏の訓練に絶え、練習に参加)
そして文化祭本番を終え、
難病と死への恐怖を断ち切った私は男子部員として、
そして仕事ー商社マンとして復活!
(仕事の内容ですか?…う〜ん、言えない、いや書けないよう??)
当時の男子部、集えば「歌」。 皆が集えば学会歌を歌いまくった。
「紅の歌」 ( ← クリック )
そして師の長編詩 ↓
「青年よ 二十一世紀の広布の山を登れ」を憶えた。
折伏、そして教学、師直伝という先輩より「御義口伝」を、毎晩の如く先輩宅で講義を受けた。
兎に角、師へ応える為「我に力を!」と必死で学び、戦う日々。
学会創立55周年から創立60周年へと、
師は青年部に 次から次へと、厳しくも暖かい、間段なく多くの指導、激励。
やがて、第二次宗門問題
この時、師の薫陶をうけた青年部は(師の)期待を裏切らず戦った。
2001年、新たな「第2の7つの鐘」の旅立ちを祝うが如く! ← クリックで「7つの鐘」へ
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1989年10月本幹 師の指導から
『“いつか広布の時が来るだろう”と、
「時を待つ」 臆病の人であってはならない。
「時」はつくらなければならない。
「時」は自らつくるものである。
時代の「変化」に応じ、「変化」についてゆくだけでは足りない。
時代に負けないで、時代の新しき「変化」をつくり出してゆく。
この人こそ広布の大人材であると私は申し上げたい。』
入会した1980年代、多くの指導、メッセージを頂きました 今、再び自分に問いかけてくれます。
「今、君はどうか!」と。
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